やっと下地が整ってきたので、そろそろ『本格ファンタジー』とは何か? という話をしようと思う。が、その前に何をもって下地が整ってきた、と言うのかという話に触れておこう。
この六年で、実際に界隈の反発や誹謗中傷と向き合い、法的な対応を経たことで、ようやく“言論に対する暴力的な拒否”が一段落し、言葉を真面目に扱える下地が整った──そう判断している。
質の悪い小説が溢れかえり、それを娯楽として受け入れる勘違いした読者が幅を利かせる。
ジャンルや歴史をろくに把握せず、ただ流行に乗るだけの投稿サイト。
そして、表現規制の突破口を開けられそうなポルノまがいの作品を次々と書籍化しては、案の定、あっさり打ち切るWeb小説レーベル。
様々な業界を渡ってきた私の目には、そこは極めて自浄作用の乏しい、“自由業”の最底辺に近い構造に見えている。この豊かさとは少し……いやかなり遠く感じられるこの界隈において、最近は大いなる攪拌または時代の波の兆しが見え始めているのだ。
ミクロ的には、私及び名興文庫に否定的で、様々な嫌がらせをしてきた人々が誹謗中傷の末に20名以上の開示に至った事が挙げられる(2025年6月時点)。これまで私の主張に強い反発を示し、ときに違法な手段で妨害を行っていた一部の人物たちは、法的な開示請求によってその行為が可視化される段階に至っている。これは単なる個人攻撃ではなく、界隈全体の“言論環境”の異常性を浮き彫りにする証左でもある。彼らはやっと、気に入らない意見を力ずくで潰そうとするのがそもそも間違っていると気付き、触れ得ざる者のように対応して迂闊な言及をする事がなくなった。無闇に声を上げて言説を潰す事にリスクが伴うと学習し、それによる静寂が訪れた状態と言える。
そして、個人の戦いとは別に、時代そのものもまた変革を求め始めている。物価の高騰により、“豊かさで誤魔化せていた虚構”が通用しなくなり、出版という娯楽の中でも特に競争が激しく、必要性の低いジャンルである小説──その中でもWeb発の作品群──は、自然淘汰の波に晒されつつある。現代では、ついに自国の米さえ安価に手に入れることが難しくなってきた。
そんな時代に、1500円を超える娯楽目的の小説──しかもWebでほぼ同じ内容を無料で読めるようなもの──をあえて購入する動機は、最初から極めて限られている。
前置きが長くなったが、私の話はある種の危機感を持って聞いていただきたいものばかりであり、まずは危機感の根拠を述べさせていただいた。さて、本題に入ろう。
本格ファンタジー。
これを聞いて多くの人々は何を思い浮かべるだろうか? なぜかイメージできる、煌めく剣と鎧、堅牢な城塞、決意、苦悩する王、火を吐くドラゴン、運命にあらがう王女……人によってそれは実にさまざまだろうが、そのイメージの原資はどこから来たかわかるだろうか?
少し前にラノベ界隈の人が『D&D』(『Dungeons & Dragons』の略称)がその起源と言っていたり、良く出来ているとされるとあるWeb発の異世界ファンタジーの元ネタがおそらくルーンクエストとその背景世界であるグローランサと考察できたり、あるいはWeb小説や一部の漫画などはドラクエのミームによる勇者や魔王概念ばかりとなっているが、実はさらにそれらの起源になっている作品群がある。
幾つか例を挙げてみよう。
例えばそれは誰もが知るならトールキンの『指輪物語』とその周囲の作品群であるし、また、ある意味でそれらと対極に位置するムアコックの『エターナル・チャンピオン』のシリーズである。そして、『剣と魔法』という世界の元となり、『D&D』の原資の大きな要素とされるフリッツ・ライバーの『二剣士』シリーズも欠かせない。魔法と世界と人の相関であるなら、『ゲド戦記』もだろう。
このような作品群を一通り辿る事で、我々日本人がイメージする、多くはゲームから来たファンタジーの原資に触れ、ゲームというフィルターを超えてイメージの源泉を得て、そこからやっと独自の物語世界を作る事が可能になるのだ。この工程を端折らずに独自の世界を描く事が『本格』足りえる第一歩だろう。本格とはそもそも、根本の規則・格式を備えていることであるのだから、履修していて当たり前であるし、それをせず、理解もしないで『本格』と名乗ろうものなら筋が通らないというものだ。
そして奇しくもそれは、『エピックファンタジー』を履修する事と一部重なっている。世界を描く技量が無ければなしえないエピックファンタジーを書くうえでも、これらの作品群の履修はほぼ必須と言えるだろう。少なくとも、私はそれを経て小説を書いている。
……と、ここまででやっと30年前、つまり1990年代に本来なら到達していなければならなかった見解だ。しかしここで現状を見てみよう。そのようなファンタジーはほとんど見当たらない。あるのはライトノベルと、Web小説の異世界ファンタジーであり、伝記的なファンタジーも出た事は出たが、エピックなファンタジーからは遠い。
一方で、ゲームの世界ではエピックな作品は今でも出続けている。なぜこんな事が起きたのだろうか?
理由は二つ挙げられる。
一つは、『ロードス島戦記』の大人気によるラノベの台頭と、ファンタジーの履修の初動の失敗にある。ゲームやTRPGの人気により国産ファンタジーへの訴求は高まっていたが、前述の作品群の紹介・共有・履修が為されず、そこにライト層に受ける『ロードス島戦記』──実際には『D&D』のリプレイを小説化したもの──がはまって大ヒットしてしまい、ファンタジーの天井がラノベどまりになってしまった事が挙げられる。ライトノベルは途中から特に人物の共感劇メインになってしまったため、本来のファンタジーにある、神話と比肩するようなエピックさはオミットされていった。その上で新たなゲームミームを落とし込んだWeb小説の異世界ファンタジーへとより『軽量化』してしまったのだから、もう読者層も完全に異なる作品であり、ジャンルを明確に分けない限りは和製エピックファンタジー、あるいは和製本格ファンタジーは発表する場所さえ厳密には無い状態となっている。
もう一つは、これも同年代の悲劇と言っていいが、青少年にゲーム経由でのファンタジー人気が燃えているのが面白くなかったのか、新潮の『日本ファンタジーノベル大賞』がヒロイックファンタジーを明確に排した事にある(これは、当時安田均先生も嘆いておられたことだ)。当時の言説では、青少年に人気のファンタジーはあくまで男性のものであり、このような作品ではない“幻想性”を、という主張だったと記憶している。確かに、同賞は素晴らしい作家と作品も多く輩出したが、出版社の商業主義を見る限り、現在はとても成功しているとは言い難いし、一方で海外ではエピック・ヒロイックな小説は大きなコンテンツとなって収益を上げ続けているし、日本のゲームではそれらを良く履修して創られたと思われる『 ELDEN RING(エルデンリング)』は空前の大ヒットを出している。これでは、つまるところは商業主義な出版社の姿勢からは失敗と言えなくもない選択だったのではないか? と私は見ている。
この二つの不幸な出来事はいずれにしても、『ファンタジーが好きなくせに深掘りはしない日本人』の特徴がよく出た出来事だったと思う。例えば、『ロードス島戦記』の作者が推していた『妖女サイベルの呼び声』は女性作家の女性主人公の物語で傑作であるし、ファンタジーノベル大賞の関係者だった荒俣宏先生は、稀有な幻想小説家でもあるロード・ダンセイニの訳者の一人でありまたファンでもあり、青少年の好きな活劇的ファンタジーに幻想性を希求する作品もイメージできたはずなのだ。
今まで私はこれら過去の出来事についてXで断片的に呟いて来たが、多くは誹謗中傷交じりの否定ばかりで、こうしてまともに記述する事は無かった。様々な否定的意見があっても、結局のところ、目の前に広がっているのはファンタジーの荒野だ。ライトやWebの文脈を除けば、エピック・ヒロイックな作品群を受け入れる賞もレーベルも存在せず、それらを楽しもうと思ったら海外の作品ばかりになってしまう。──それが、この三十年間の現実である。
さて、話を現在に戻そう。
小説界隈はどうにも小さく断絶しているようだ。『小説はこんなもの』『Web小説はこんなもの』という天井のある空気感が蔓延し、読み手もその範囲でしか小説を読めないことも多くなってきている。一方でAIの台頭やPCの高性能化によって、本格的なファンタジーはゲームやドラマや映画になる事が顕著になってきた。あくまでも世界に目を向けるならば、テキストだけで広大で誰も見た事のない世界を描ける小説家にとって、その原資を作る意味も求められる意味も増えてきており、ある意味で小説の界隈を無視した創作姿勢が必要になってきている。
では、私が考える「日本における“本格ファンタジー”」の条件を、以下に明示しておこう。
1.現在のファンタジーのイメージの元となった作品群を一通り履修している
2.男性・女性どちらにも偏らない視点・テーマで描かれている
3.幻想性と壮大さ、神話性を有し、“エピック”と呼べる物語構造を持つ
4.日本人にしか示せない歴史・文化・死生観といった深層テーマを内包している
5.ゲームや他ジャンルに逆に影響を与えうる解釈と構築力がある
6.神話に比肩するような物語群として、重層的な世界と人間像を描き出している
といったものになると私は考えている。私はこれを『本格ファンタジー』という単語にまとめて発信しているのだ。しかし、気に入らない言説は誹謗中傷してでも封じ込めようというWeb小説の界隈で、ここまで毎回説明するのは実にナンセンスな事だったので今日まで言及を控えていた事になる。まして、これでさえ細部は説明が必要で共有も難しいものなのだから、今までの私からため息しか出なかったのは察して欲しいし、やっと説明できる下地が出来たと思っている。
このような創作は確かに困難を伴うが、もし体力のある出版社が10年に一度でも真摯に取り組めば、作品は息長く愛され、継続的な支持を得ることも十分に可能だ。むしろ、それこそが出版という営みの本質的な意義ではないか、と私は考える。いずれにせよ、大同小異の作品群はやがてAIの台頭によってその価値をほぼ失うのは間違いがないのだから、一つの言説としてファンタジーの歴史を振り返りつつ、この記事を読みながらいろいろと想像して欲しいものである。何より、海外にはあって日本にはほとんどないのも単純に寂しい話で、これがいつまでも続くのも好ましいことではないと思うからだ。
つまり、我が国における本格ファンタジーとは、かつてあったものではなく、これから描かれなければならないものだ。
それを描く者が現れるのか、受け取る者が育つのか──いずれにせよ、未来はまだ書かれていない。
待ちくたびれた私は、逸脱した読者として、ただ筆を執っている。
これが“本格ファンタジー”の原点であり、同時に出発点である。
私や、あなたが望む物語は、果たしてこの世界にあるだろうか?