第五回、『何者か』とは闇である

コラム

 さて今回は、Xなどでもよく見られる『何者かになる・なりたい』の『何者か』という概念について私見を述べてみようと思う。

 実際、多くの場合これに惑わされる人は多いだろうと思う。大多数の人々がこの『何者か』であらんとしたり、なりたい人は少なくないようだが、実はこれはあなたの深淵であり実体はない。だからこそ多くの人々がこれに囚われてしばしば自分を見失い、時には人生を大きく踏み外してしまう事もあるのだろう。

 若い頃というのは誰しもがその実力や能力を問われ続けるが、自分自身に価値があるのかは甚だ不安を抱えざるを得ないままに何年か過ごすことになりがちだ。その日々を超えて何かを手にした人は落ち着けることもあるだろうが、そうでない人はいつまでもこの願望を抱え続ける事になり、時には囚われてしまう事もあるだろう。なぜそんな事になるのか?

 答えは『おのれの心の闇にしっかり向き合っていないから』だ。自分の卑小さ、未熟さ、足りなさ、悪意、そのような諸々に向き合い続けなければ、この闇の彼方に向き合って進む事が出来ず、そこに眠る才能や可能性を伴う自分自身が分からない。だから挑戦できず、しかし自己の評価を誤り、他者や世の中を都合よく解釈しては理想と異なる現実にダメージを受け続け、遂には固執した性格のまま歳だけを重ねる事になりかねない。こうなってしまった人は常にマウントを取ったり、おのれと誰かを嘲笑したり、あるいは関係のない事に怒りを抱えて自己欺瞞のように自分を浪費していくことになりがちだ。ルサンチマンに囚われた人の誕生である。言い方を変えるなら『おのれの闇と対峙してこなかった者』だろう。

 しかしながら、これを避けてその日からずっと『何者か』であることも実は難しくはない。手と足を動かし続ければいい、それだけだ。私の好きな言葉に『血と汗と涙を流せ』というものがあるが、黙々とそれを行い、自分がすべきと思う事を続け、足りないと思う事は研鑽していけばそれだけでいい。そうやって自分に向き合い続けていれば、自分のできる事、出来ない事が分かってきて、次第に『自分を信じられる範囲』が広がってくる。これこそが『自信』という概念そのものだ。つまりはおのれの闇に立ち向かう行いでもある。

 しかし多くの場合、そんな単純な事を続けられないからおかしくなる人が多いのだが、そんな人たちは大抵、他人に認められたらそれが何者かだと勘違いをして、お手軽にそれを得んとしてしまう。もしも運良くそんな事があったとして、結局はどこか不安が残り続けてしまう結果になる事が多いだろう。それは自分に向き合っていない為に自分を信じる事が出来ないからだ。ごく当たり前のことである。

 というわけで、あなたがもし『何者かになりたい』と思うなら、まずは徹底して自分の濁った闇に目を向け、足りない能力、知力、容姿、技量、人格、その他もろもろに向き合い、不足を知って何を積み上げて取り込んでいくかよく考え、あとはひたすらに血と汗と涙を流し続けるしかないだろう。そしてもしも早くにそれを成したいなら、可能な限り困難な死地にでも身を置き、頭までその泥濘に浸かるのが最も手っ取り早いだろう。この間、決して自分を甘やかさず、そして出来ればその過程をいかに楽しむか考えて過ごすといいだろう。

 それを超えた時、あなたは自分を信じる事が出来るようになり、放っておいても他者から声がかかる人間になっているはずだ。その時点でのあなたは既に『何者か』であろうと思うし、もはやそんな事を考えていた事を忘れかけているだろうと思う。

 さて、あなたの内なる闇には何が眠っているだろうか? 多くの場合は掘り尽くせぬ才を誰しもが持っている。それが数多く見いだせると良いな、と思う。