『ライトノベル』の未来とは(2)

コラム

本コラム「『ライトノベル』の未来とは」は三分割しています。
『ライトノベル』の未来とは(1)はこちら
『ライトノベル』の未来とは(3)はこちら

5 残された市場は海外にあるが

 日本の人口は出生数が改善しない限り、減少していくのは間違いありません。故に、子どもの市場を失った『ライトノベル』は海外展開を視野に入れなくては成り立ちません。総務省統計局『世界の統計』を見ると、世界の人口は確実に増えています。

 海外展開をする際必要となるのが翻訳作業です。そして翻訳するのに苦慮するであろう項目が「『ライトノベル』とは何か?」で取り上げたように、キャラ語でしょう。

「あのコラムを書いた人物は翻訳家を馬鹿にしている」といった論調を見ました。Google翻訳が完全ではないとの理由だそうです。そんなことは百も承知です。ですが、簡単にわかりやすく説明するために使用しました。実際の作業はもっと繊細に行われるでしょう。

 あそこで問題にしていたのは、キャラ語というハンデがある『ライトノベル』を積極的に翻訳するよりも、一般文芸や専門書を翻訳・出版する可能性の方が高い、という点です。さらに、社会的に大きなインパクトを与えられていない『ライトノベル』を海外で出版するよりも、社会現象化しやすい漫画やアニメの方を優先的に翻訳するのが普通ではないでしょうか? 現在の『ライトノベル』は、積極的に翻訳し、海外展開する価値を見出しにくい状況です。

 文部科学省『令和3年度 文部科学白書』には「第9章 文化芸術立国の実現」「第5節 メディア芸術の振興」という項目があります。日本のアニメーション、マンガ、ゲームなどの芸術は海外から高い評価を受けている事実を鑑み、さまざまな取り組みをしていると紹介しています。

 ここに『ライトノベル』は含まれていません。『ライトノベル』は現時点で高く評価されていないのです。なので市場を開拓しなくてはなりません。しかし、翻訳された作品よりもアニメや漫画の方が多くの人の目に触れるのは簡単に想像できます。

 そして何より、数多くある『ライトノベル』の中には「お約束」で成り立っている作品があります。狭い範囲内でしか楽しめない作品です。それを海外で売ることは現実的でしょうか? もし実際に翻訳出版したとしても厳しい結果が出ると思われます。

 キャラ語という特殊なセリフが存在し、「お約束」で成り立つ作品がある。それを苦労して翻訳して元を取るのはとても難しいと容易に想像できます。しかも、アニメ化・漫画化した作品の原作をわざわざ購入してくれるファンは、海外にどの程度いるのでしょうか?

 翻訳し海外で出版するには何かとハードルが高い『ライトノベル』。このハンデを背負ってまで積極的に海外展開してくれる出版社は数に限りがあると予想されます。そのリスクを取るくらいなら、より売れる見込みのある書籍や漫画を翻訳するでしょう。

 出版社は慈善事業ではありません。翻訳したからにはコストを回収しなくてはなりません。「出版社は水商売」。ものすごいブームが来れば方針は変わるでしょう。また、確実なことは実際に出版しなければ何もわかりません。ですが、勝率の低い出版に賭けて出る出版社が多いとは思えません。

 せめて国内で社会現象を引き起こすレベルの作品や、長期にわたって愛されている作品があれば、出版社も積極的に海外で出版しようとするでしょう。翻訳出版する価値のある作品なら、リスクを取って行動してくれるはずです。ただ現時点、社会現象を引き起こすような『ライトノベル』は見当たらないのが現実です。

6『ライトノベル』が生き残るために

 以上より、『ライトノベル』の未来はとても暗いと考えています。

 市場として豊かな子どもが、売れている作品にしか手を出していない状況。
 それにより、将来の読者を失っている状況。
 電子書籍化しても、彼らが積極的に読むのは漫画の可能性が高い状況。
 社会現象を引き起こせていない現状。
 海外に翻訳出版するにはハードルが高い現状。

 さらに、世界情勢の不安があります。日本製紙は2023年2月から印刷・情報用紙の値上げに踏み切りました。そのため、出版社は売り上げが低迷している雑誌を休刊・廃刊にしています。この流れは今しばらく続くでしょう。紙になる作品は今後減っていくのではないかと見ています。

 これからは印刷する価値がある作品は紙媒体として出版され、そうでない大量生産・大量消費の作品は電子書籍化するに留まるでしょう。そうなれば『ライトノベル』はますます売れる作品のみ読まれ、それ以外は全く売れなくなると予想されます。市場の縮小は免れません。

 さらに『ライトノベル』は膨張し切って意味をなしていない言葉になりつつあります。市場が縮小され、使い勝手がいいのか悪いのかよくわからない言葉を、我々は今後も大事にできるでしょうか? あっさり辞書から消え去るだけだと思います。

 ではどうすれば『ライトノベル』は生き残れるのか? そのヒントは全国学校図書館協議会『学校図書館』2022年11月号(第865号)にあります。

「今の学年になってから読んだ本」のアンケート結果に『人間失格』『羅生門』『坊っちゃん』があります。どうして彼らがこれらの作品を手に取ったのかわかりませんが、おそらく出版社が何度も装丁をリニューアルして出版しているから、目についたのでしょう。

 ここでひとつ提案します。
『ライトノベル』の古典を決めませんか?

『ライトノベル』を語るのなら最低限これを読むべし、という作品リストを作るのです。これにより「この作品は『ライトノベル』という歴史を語る上で必ず読まなくてはならない」という認識が生まれ、再版される可能性が高まります。市場に出回れば子どもたちが朝読で読むかもしれません。そこから埋もれていた『ライトノベル』作品に光が当たり、市場が拡大する可能性が生まれます。

 リストに挙げる作品は多すぎてもいけないし、少なすぎてもよくないでしょう。そして、比較的多くの人が納得できるような形にするため、さまざまなパターンのリストを作った方がいいと思われます。このリストは年代別がいいのか、ジャンル別がいいのか、売上でみるべきなのか、出版レーベルで分けるべきなのか、議論は尽きないはず。なぜなら、『ライトノベル』の定義が定まっていないからです。

 現時点、私は『ライトノベル』を膨張し切ったものとして認識しています。私には『ライトノベル』の定義はできません。不可能です。そしてこの作業は出版社にはできません。どうしても贔屓が入るからです。一読者であるあなた方にしかできない作業なのです。

 本当に『ライトノベル』を愛しているのなら、是非、多くの人が納得できる『ライトノベル』の古典を決めて、リスト化してください。これが『ライトノベル』が生き残れる道です。できなければ、意味をなさない言葉として『ライトノベル』は消え去るだけでしょう。

7 児童文学と『ライトノベル』で思うこと

「コラムの執筆者は児童文学作品を高尚なものだと考えているのではないか」という意見を見ました。文章をちゃんと読んでくださったのか、甚だ疑問です。児童文学とは「大多数の大人が「子どもに読ませても大丈夫」と判断した小説である」と説明しました。大人が子供に買ってあげても良いと思える作品が児童文学です。高尚や低俗、ましてやエンターテイメント性が低い、などと書いていません。

 児童文学の歴史は浅いです。児童文学は「一九世紀に植民地をもつくらいに大きな国力を有する国々でなければ、児童文学は育たなかった」と言われるくらい、経済的・文化的余裕がないと生まれないものです。「子ども」という概念が発明されたのは一七世紀頃の西欧からであり、それまでは「子ども文化」という考えはありませんでした。

 児童文学というものができたのは、文字を読める人々が増えてきた一八世紀半ばになります。この時、ふたつの子ども観が生まれます。ひとつは「罪深い子ども」。もうひとつは「高貴なる野蛮人」です。この考え方は現代の私たちからすると、少々堅苦しく、突飛過ぎる意見に見えると思います。

 このように、大人たちが子どもに伝えたい内容は時代によって大きく変容します。過去出版された作品の中には『ちびくろサンボ』のような、のちに人種差別問題が発生し、出版できなくなった作品があります。その時代に生きる大人にとって許せる内容か、そうでないのか。それが児童文学の目安です。高尚か低俗かは関係ありません。ただ時代にそぐうかそぐわないかだけの話です。

 だからこそ、『ライトノベル』は現在子どもを持つ大人たちにとって、読ませてもいいと思われる内容かどうかが重要なのです。

 児童文学が経済的・文化的余裕がないと生まれなかったように、『ライトノベル』もまた、経済的・文化的余裕があったからこそ生まれたのではないか、と個人的に思っています。出版文化が熟成し、見出されたのが『ライトノベル』という新しい枠組み。これを伸ばしていくかどうかは、いかに『ライトノベル』という分野を確立させ、研究対象にできるかが重要だと考えています。

 ですが、気に食わない意見を目にして反射的に飛び掛かるような人がいる内は難しいでしょう。ましてや読解力が皆無の人が、よってたかって提示された意見に非難をぶつけるようでは、このまま消えゆくしかないと思います。

 ここで、どうして「『ライトノベル』とは何か?」にC・S・ルイスの『ナルニア国物語』を取り上げたのかを書いておこうと思います。

『指輪物語』を執筆したJ・R・R・トールキンはオックスフォードで学生生活をしていた時、仲間と共にクラブを作りました。どうやら仲間内で集まるのが好きな性格だったようです。そしてオックスフォードで教鞭を取るようになった時もクラブを作りました。このクラブにC・S・ルイスが参加しています。

 クラブ内では作品やアイデアを発表し、互いに切磋琢磨していたようです。ここから『指輪物語』と『ナルニア国物語』が生まれました。

『指輪物語』は細部まで丁寧に作り込まれた世界で繰り広げられる物語です。J・R・R・トールキンはC・S・ルイスが執筆した『ナルニア国物語』を読んで「子ども向きのフェアリーテール」と言って、あまり評価してはいなかったそうです。そんな『ナルニア国物語』ですが、現在でも人気の高い作品です。作品をより深く理解するにはキリスト教の知識があった方がいいでしょう。ですが、なくても楽しめる物語です。

 Web小説投稿サイトを、J・R・R・トールキンが作ったような、互いに切磋琢磨して未来にまで残る作品を生み出すクラブにできないでしょうか? ランキングの上位に食い込むことばかりに必死になるのではなく、たった一人の大切な誰か、あなたにとって大事な未来の読者に届く物語を作り出せる場にできないでしょうか?

『ライトノベル』や「なろう系」という枠組みを超えた作品を作り出せる環境は整っています。あとは執筆者がどれだけひたむきに努力できるかによるのだと、私は考えています。

『ライトノベル』の未来とは(3)に続く。