【はじめに】
本コラムは代表概念がファンタジーの篤学者に三顧の礼で執筆していただいたものです。
皆様のこれからの創作に役立てていただければ幸いです。
序
このコラムを書くにあたって、まずはこの名文を掲載、引用したい。
──第二次世界大戦の敗北は、軍事力の敗北であった以上に、私たちの若い文化力の敗退であった。私たちの文化が戦争に対して如何に無力であり、単なるあだ花に過ぎなかったかを、私たちは身を以て体験し痛感した。(以下続)
某出版社から刊行された書籍をある程度読んだことのある方なら、一度は目にした事がある名文かもしれない。これは1949年5月3日に角川創設者である角川源義氏によって書かれた文章であり、角川文庫の多くの書籍の巻末に掲載されている名文でもある。
かつて少年だった自分は心躍らせる書籍の本文のみならず、巻末にしばしば見られたこの名文に大いに思うところあり、その後の生き方や仕事への姿勢において少なくない関わり方をする事になる『文化』という概念に対して、いつもこの理念でもって俯瞰、比較してきた経緯がある。
それは氷河期世代でもあり困難の多かった私の人生に、結果として多くの困難を乗り切って自由を得るに至らしめる希望の光となり、度重なる逆境があっても乗り越え、好機を見抜く見識を与え、たとえば今生でどうしてもしなくてはならない事はあとわずかとなったほどだ。世代的にも冷たい逆風吹きすさぶ時代の中にあって、稀有な部類の恵まれた地平に私を導いてくれたこの名文の理念と文化は、かように大きな示唆と結果を人に与える思想の根幹が含まれていると私は確信している。
……まず本コラムを読まれる方におかれましては、この冒頭の名文こそが筆者の基本理念であるという前提を頭に据えた状態で読解してもらいたい。
ファンタジーの現状について
のっけから本音を言わせていただく。ライトノベルの概念が世に出て30年以上経過して、現在も異世界ファンタジーライトノベルが沢山刊行されているというのに、テレビで幻想的な光景が出るたびに『ジブリみたい』と言われるままにしてる時点でその存在感はいささか寂しい。少し考えてみて欲しいが、ジブリ作品に対抗できる、または凌げるほどのファンタジー小説がまずすぐには思い浮かばないはずだ。
これはなぜか?
ファンタジーにおいて大切な『世界と人物の相関』の、『世界を描く』ベクトルが現状では過小に評価されているから、としか言いようがない。これは悪い意味で『人物の物語』に焦点が寄り過ぎ、そこに終始しているからと思われる。
これによりどうしても小粒感がぬぐえない物語が多く、『結局主人公が幸せになって終わるんだろ』で大抵の作品の説明が出来てしまうように、『人物の解像度』は高くても『世界の解像度』はそれほど高くないままで、せっかくのファンタジーでも圧倒的な幻想世界を魅せる事が出来ていない。これは当然、本来のファンタジーが好きな読者への訴求力も弱くなる事も意味している。
さらにこの面を加速させた要因としては、現在の異世界ファンタジー小説の主要刊行モデルであるライトノベルが共感を得るコンテンツとしては理想的でも、『壮大なファンタジー小説』を生み出す下地としては弱くなりやすいという致命的な相性の悪さによる。
それでも、初期のライトノベルの設計思想は『小説の読者を増やす』という目的も明確であったため、まだ世界の解像度が高い作品、壮大な作品は散見されていた。しかし、商業主義が強くなって試行錯誤されていった結果、キャラクター小説としてのファンタジーという要素も強めつつ、良くも悪くも軽量・最適化され過ぎて、もはや壮大なファンタジーを表現するにはかなり相性の悪い部分が目立つようになってしまった。
しかも『書籍化する』『コミカライズされる』といったところまでが理想的な到達点に設定されている現状では、その目的のために目先の面白さと共感性に特化したほうが良いため(たとえばランキング攻略など)、それによるコンテンツとしての力不足を看過しがちな構造になってしまい、小説投稿サイトでもライトノベルに分類しがたい性質の違うファンタジーさえ『異世界ファンタジー』として一緒くたにしてしまっているため、より分かりづらいものになってしまった。
この問題点を可視化するのは実は難しくない。
──その小説を原資として、世界中で上映できるような映画を創れるか? または、壮大なオープンワールド系のゲームを創れるか?
と考えてみればよい。大抵は無理であり、せいぜいソーシャルゲームがいい所であり、ソーシャルゲームとしてもかなりキャラクターや世界を後付けで水増ししなくてはならない構成であることが浮かび上がってくるはずだ。
壮大な物語が足りない
さて、ここで考えてみて欲しい。マルチメディア前提の時代に商業規模がそれくらいで頭打ちの構造の作品群しか出ない状態は、はたして理想的と言えるのだろうか? と。
まして、かなり出力コストの少ないテキストのみで大幻想世界さえ作れる小説の世界で、そんな作品を安定して生み出す下地さえないのはあまりに貧困であると言わざるを得ない。これは単純に大きな機会損失とも言えるし、ひいてはライトノベルというジャンルそのものの存在感を小さくしていく可能性さえある。
対して現状、大手出版社はマルチメディア路線をより明確に打ち出し始めたため、このような表現・収益形式に応えられる『大きな物語』の必然性は今後も増していく可能性が高い。実際に、最近はオープンワールドのゲームの人気が高くなっているが、これら作品群の人気の土台はよくできた世界設定および世界観なのだ。そんな世界を舞台として多くの魅力的なキャラクターを動かせる事が大事になってくるが、この供給の場が不足している、または供給される土壌があまり適切では無い印象だ。これはいずれ可視化され問題になって来るだろう。
何しろ、例えば『ウィッチャー』や『指輪物語』、『ゲーム・オブ・スローンズ』のような作品がほぼ無いのだから。これらの作品のファンは多いのに、とても不思議なものだと思う。
日本のファンタジーはどうしてこうなったのか?
さて、ではどうして日本においては『ファンがいるのに海外にあるようなファンタジーの大作はほとんどない』という状態になっているのだろうか?
私がリアルタイムで観測してきた限りでは、『当時の出版界がファンタジーの主軸を見誤ったから』としか言いようがない。
少し過去にさかのぼって説明しよう。『ロードス島戦記』の爆発的なヒットでカドカワが『ライトノベル宣言』を出してライトノベルの時代が明確になり始めるころ、それ以前は『ファンタジーノベル』と呼ばれていた作品群もライトノベルの前期と分類されるようになったが、この時期に新潮社が『ファンタジーをテーマにした文学賞』というコンセプトで『日本ファンタジーノベル大賞』を開始した。
つまりほぼ同時期にライトノベルの勃興と、この層でない読者層向けには『日本ファンタジーノベル大賞』が誕生したため、一見国内でのファンタジー作品の誕生は全方位でカバーできるという印象を抱いた人が多かったように思う。
しかし、当時の私はこの流れに非常に嫌な予感がしており、その予感は現実のものとなってしまった。なぜか? これらブームの火付け役となった『ロードス島戦記』が大ヒットした背景を、出版社が正しく分析していなかったことに拠る。
『ロードス島戦記』はなぜ大ヒットしたか?
当然のようでいてあまり俎上に上がらないこの部分について語っておこうと思う。『ロードス島戦記』というラノベ史を大きく盛り上げた大火は、実は長い間にゲーム界隈で火力を高めていった強い熾火があったから燃え上がったのだ。この『熾火』について話そう。
『ロードス島戦記』の誕生前夜、ゲームについてはファミコンの普及によって爆発的にヒットしたドラゴンクエストシリーズや対抗馬であったファイナルファンタジーシリーズ、PC-8801を代表とする家庭用パソコンとファミコンの両方で100万本ずつ、計200万本を売り上げたハイドライドシリーズなどなど枚挙にいとまがないが(挙げられるタイトルは無数に等しくあるが省略させていただく)、このようなゲームの作品群がまず『剣と魔法の世界』つまりはファンタジーコンテンツのコンテクストを浸透させていった。
この時期、同時に少年誌やパソコン雑誌などでもこのような世界観の創作物は増えていったが、ファンタジー世界は幅広い表現が可能な分、誰もがイメージする『コンテクストの主軸』……つまりは壮大性の伴った『こういうのがファンタジーだよ!』の正鵠を射るものとなるとそう多くなく、また明らかにファンタジーを児童・少年向けという解像度にとどめていた出版界の風潮はこの部分には無頓着だったため、リアルなユーザー層の少年たちには『もっとこう、あるだろう⁉』というある種の欲求不満もまた蓄積していた。
ここに(ある程度)がっちりはまったのが『ロードス島戦記』だったのである。
見失われがちな『主軸』
『ロードス島戦記』この作品の空前の大ヒットによってカドカワは『ライトノベル宣言』を出し、ラノベブームが大いに勢いを増したが、『ライトノベルという概念を抜きにしたファンタジーそのもの』という主軸はかえって見え辛くなってしまった。
これにより、隆盛していくラノベとは裏腹に、ラノベのファンタジーから離れていく人も少なからずいた。『何か違う』という違和感が残るからである。かくいう私もその一人だ。
では、『ロードス島戦記』を大ヒットさせた、それまで人々がイメージしていたファンタジーの主軸とはどこにあったのだろうか?
答えは、『これらゲームのインスピレーションの元となった作品群』となる。それらの作品をある程度履修してファンタジーの源泉に触れてやっと、人々がイメージするファンタジー世界の公約数のような世界観が打ち出せるようになるのだ。
しかし、『ロードス島戦記』の反響とそれからなるライトノベルの隆盛に、広義の幻想文学小説賞である『日本ファンタジーノベル大賞』の方向性は、よりによって肝心なこの主軸部分だけを見落としたものとなってしまった。これは、例えば未知の進んだ文明と交流した時に、相手側が乗ってきた母船ではなく小舟を見て相手の文明を推し量るに等しい。この損失はきわめて甚大だと思われる。
『主軸』を見落とした損失
さて、ではこの『主軸』を見落とした損失はどのように可視化されるだろうか?
答えは明白で、前述もしたが『ゲーム・オブ・スローンズ』『ウィッチャー』『ロード・オブ・ザ・リング: 力の指輪』などの作品と比肩できるような作品はほぼ見当たらず、そのような作品を見出す小説賞さえない。
五年後、十年後、三十年後、半世紀後も変わらずに映像やゲームになるような、国境を超えられるような『大きなファンタジー』がほぼ見当たらないという寒々しい現状が見えてくる。
例えば少し試算してみて欲しい。三十年ほど前から前述の作品群に比肩するような作品を生み出せる小説賞があり、そこから生まれた作品が一作品でも世界規模で通用していたら? と。ジャンルの主軸を見失ったせいで、我々は大きな機会損失を垂れ流し続けている現状が見えてくるだろう。様々な意味で実に嘆かわしい事だ。
『そんな事あるわけない!』と、例えばweb小説やライトノベル界隈の人々はこの言説に疑問を抱くかもしれない。しかしながら最近、日本発のコンテンツでこの『ファンタジーの主軸』を見失わなかった作品が大きな数字になった実例がある。
ゲーム業界に残る『ファンタジーの主軸』と『エルデンリング』
『ロードス島戦記』の大ヒットという大火を起こした『ゲーム界隈での熾火』について前述したが、であればゲーム業界にはこの『ファンタジーの主軸』が受け継がれており散見される筈であり、長い年月を経てそれが巨大なコンテンツとして世界に通じる形で発露した例が観測されてもおかしくない筈である。
では、そんな作品はあるのか?
その最たる例がフロム・ソフトウェア発のソウルシリーズからオープンワールドに発展した『エルデンリング』だろう。最近発表されたが、これは世界で二千万本売り上げたという途轍もない実績がある。
緊張感のある斬新なゲームシステムも大きな特徴だが、何よりの魅力は武器や装備の細部の緻密さから、世界観と設定の壮大な部分に至るところまでの徹底した作り込みによるところが大きいだろう。文字通り『大きな物語』の主人公をロールプレイできるこの体験は、例えば私などが少年時代にファンタジー世界のゲームに思い描いていたものが実現している。
これを可能にしたのは『ファンタジーの主軸』を捉えていたからに他ならない。人々がイメージする公約数的なファンタジーのイメージを把握しており、これを軸とした世界設定を肉付けして『多くの人々が思い浮かべるような、しかし独自性もある世界観』を構成し、未知の神話世界を冒険しているような体験をさせる事に成功しているのだ。
いかにファンタジー世界の骨子たる『主軸』の把握が大きな力を持つかお判りいただけただろうか? そして、この『主軸』に則った作品こそが私が提唱している『本格ファンタジー』でもある。
一方でゲーム業界での『エルデンリング』の大ヒットの中に、小説界隈の残念さも見て取れる面がある。
起用されなかった日本のファンタジー作家
『エルデンリング』というプロジェクトが2019年の『E3』において発表された当初、『ゲーム・オブ・スローンズ』の作者であるジョージ・R・R・マーティン氏の参加も併せて発表された。これは当時、私としては残念な気持ちよりも『当然だろうな……』という嘆息をもって自然に受け止められた。
『ゲーム・オブ・スローンズ』は放送終了後にそのロスがTwitterでトレンド入りするほど話題で、当時私のTwitterの実業アカウントは普段ドラマの話をしない人たちでさえこの話題で持ちきりだったが、一方で肝心の創作界隈のアカウントでは静かなものだった。
本来の意味での『ファンタジー作家』はもうほとんど失われて久しいと自分は感じていたし、だからこそこの参加も(非常に残念だが)当然のものと受け止められた。『ファンタジーの主軸』が見失われて三十年あまり。西洋風ファンタジー小説はわずかなものを除いてライトとweb小説一色になり、ランキング争いでいわゆる『PL思考』が猖獗を極めている現状では『大きな物語』を創る作家が見当たらなくなっても仕方のない事だった。
しかし、この状態は『健全で正しい』のだろうか? これに類似した議論を起こすと、webの小説界隈ではいつも『商業的な正しさ』に話がすり替えられて現状のラノベやなろう系web小説を是とする論説を持ちだしてくる人々がいるが、これは近い将来限界が露呈するだろう。
『マルチメディア』の時代にこそ、より『本格的なファンタジー』は必要とされる
さて、『エルデンリング』の大ヒットに伴い、例えばカドカワはもともと得意だったマルチメディア路線をより強くする考えのようだ。人気のライトノベルからも色々と展開する予定のようだが、しかしながら『エルデンリング』のようなコンテンツはなかなか出ないだろう。
ここで前述の文言をまた引用させていただく。
──その小説を原資として、世界中で上映できるような映像作品を創れるか? または、壮大なオープンワールド系のゲームを創れるか?
現状のライトノベルやなろう系web小説は『ファンタジーの主軸』を見失ったまま末端肥大・先鋭化したため、この部分に致命的な弱点を抱えており、展開性に少なくない限界が生じているのだ。遠くない将来、商業の現場などから『どうして日本の小説界隈からは『指輪物語』や『エルデンリング』のような作品が生まれなかったのか?』という議論が出てくるのは間違いないだろう(このコラムはその疑問への解の一つでもある)。
一方で技術革新著しいゲーム業界ではオープンワールドが非常に増えてきているし、その広大で魅力的な世界を表現するためには世界観の提示、世界の設定力と相関した人物たちの造形力も欠かせない。欠かせないが、肝心の小説界隈は現状、あまりその原資を提供できる場とは言い難い状態になっている。そして、それはゲームを開発する人々からしたらよく見えている問題点だろう(実際に、中国発のオープンワールドゲーム『原神』内では、日本のラノベの現状についてそこそこ詳しい会話が交わされていたりする)。
巨大な物語とその世界を丁寧に作る創作者は以前から不足していたが、その需要はマルチメディア化が容易くなればなるほどより高まっていくばかりという事だ。何かあれば商業の数字を引き合いに出して自分たちを肯定したがるライトな小説界隈も、そろそろ少しは先を見てこれを視野に入れた方が良いのではないか? と思う。
マルチメディアを見据えた大きなファンタジー創作の方向性
現在、映画やドラマ、ゲームになっている過去の大きなファンタジーは、当初そこまでマルチメディア展開を意識していたものでは当然なかった。しかし、だからこそ小説として詳しく世界を描く事に注力されており、そんな詳細な世界の作り込みがマルチメディア展開を行うにあたって補完工程が少なく有利に働いた面がある。
では、これから先の大きなファンタジーはどのような意識で作成されるべきか? と言えば、ある程度は時代に合わせてマルチメディア化を視野に入れておくのが妥当どころか必須だと言える。非常にあざとい解釈をするなら、TRPGにもソーシャルゲームにもオープンワールドゲームにも補完工程が少なく発展できるのが理想形だろう。
これは例えば作中の舞台となる国家の建築様式や文化、美術様式がざっくりと示唆されるだけでもマルチメディア化の際の工数が大きく減るし、世界の地図や神々とその敵対者、種族、魔法的な力の原理など、ある程度明確に設定してあれば、あとは勝手に発展していくのだ。建物で言えば、『大きな箱ものの土台をしっかり作っておく』事ができれば、それ以降はたやすい。あとはしっかりと壮大な物語を書き終えれば、工数に裏打ちされたある程度の評価は必ず得る事が出来るだろう。
このような作品が散見される事こそが理想的な状態だと言える。面白い事に、かつての本格的な大作のファンタジー小説がやっていた事をあらためて腰を据えてやる必要があり、その重要度が高くなっているという事だ。
ライトノベルの天井
しかし残念ながらwebでこのような論はほぼ見た事がない。『読者受けを狙い、ランキングを攻略しろ』こんなところで終わっている論説だけはやたらと目にする。もちろん書籍化してアニメ化も良いが、もっと大きく広く受けるような作品の作り方も論じられて欲しいものだと思う。もしかしたらこの辺りに『ライトノベルの天井』があるとも言えるかもしれない。そしてその『天井』は次第に可視化されるだろう。実際のところ、現状のライトノベルの土壌ではこのコラムで扱うような『大きなファンタジー』は生まれようもなくなっているが、皮肉なことにより発展した商業モデルがそれをよりはっきりと浮かび上がらせるだろう。
投稿サイトおよび出版界は、出来る事ならこの『天井の可視化』を避けられるように微調整して、ライトノベルも先鋭化とは逆の方向に舵を切っていく事を考えてほしいものである。それが出来れば、現在起きているような『ライトなファンタジーと本格的なファンタジーの大きすぎる乖離』を埋められるような作品もまた現れ、相互に良い影響を与え、より幅広い支持層を得られることに繋がると思われるからだ。
これは具体的には投稿サイトや業界のモデルを『PL思考(短期的利益モデル)』から『BS思考(長期的利益モデル)』に切り替えるような考え方で解決させることができるだろう。
代表的なファンタジーの大作の思想の対立と方向性
さて、現行のweb小説やwebの『小説投稿サイト』に関する方向からの考察も可能ではあるが、もっと大きな話をして行こうと思う。
少し前の『日本ファンタジーノベル大賞』において恩田陸氏が『ファンタジーは小説の手段に過ぎない』という趣旨の発言をされていたが、これは本当にそうだろうか? 筆者としてはこれは『否』である。むしろ本格的なファンタジーだけが他の小説と異なる可能性を持っていると考えており、それについて述べてみよう。
『本格ファンタジー』がwebのTwitter界隈などで炎上に等しく話題になってくると必ず『『指輪物語』のような作品の事だろう』といったJ・R・R・トールキン原作の『指輪物語』に絡めた言説が出てくるが、実はこれはファンタジーに関しての解像度が半分程度の論に過ぎない事をご存知だろうか?
あらためて後述はするが、多くの『ゲームの原資となったファンタジー』に、マイクル・ムアコックの『エターナル・チャンピオン』シリーズが挙げられる。特に魔剣ストームブリンガーを軸とした『エルリック・サーガ』は非常に多くの作品に影響を与えているのだが(日本のコミックスの『コブラ』などは台詞まで同じシーンがあるほど!)、このマイクル・ムアコックが『指輪物語』にはかなり批判的だった事はあまり知られていない。
どちらも大きなファンタジーではあるが、何かが決定的に異なっている事になる。ではそれは何だろうか? これについては幾つかの解釈や意見があるが(ムアコックならずとも宮崎駿氏が『ロード・オブ・ザ・リング』をわりと痛烈に批判していたり面白いので調べてもらうとして)、非常に簡単に言うなら『指輪物語』は現状の社会を肯定した上で大幻想世界を描いており、ある意味で現実逃避的な面があると言えなくもない部分がある。これに対してムアコックは『ファンタジーは我々人間や社会の問題点をもっと浮かび上がらせるべきだ』という趣旨の主張でアンチヒーロー的な主人公が活躍する、しかし世界の構造にまで言及する物語を出したわけだ。
これは自分がファンタジーを考える上で最も大事にしている矛盾または二軸でもある。
求められる『大きなファンタジーの世界観』
つまり、ファンタジーはその幻想美や世界設定が緻密なだけでは、『壮大な現実逃避』になる可能性が常に潜んでおり、そのような世界を描写すればするほど、『我々が直面している多くの現実的な問題への比喩と、それらへの解』が必要になってくると言える。
これこそが壮大なファンタジーの二軸であり両輪だろう。
我々は日々多くの個人的な、そして社会的な問題に忙殺されており、人生とは結局のところそれら無数の矛盾に自分なりの『解』を積み上げていく事だが、これは大きなファンタジー小説ほど大切になって来る概念でもある、という事だ。
つまり巨大な美しい幻想世界を出すなら、それに見合った巨大な問いと解を示す必要があるという事。これは人物への共感に終始する物語ではまず足りなくなってくることを意味している。と同時に、このようなテーマをしっかり表現できれば、一つの物語だけで読者に多くの可能性を手渡す事もできるかもしれない。
さらに『日本の唯一性』を加味してみる
さて、前項のアプローチはある程度の読書をしていれば半世紀近くも前にたどり着けているはずの見解であり、それだけではただの『巨大な西洋風ファンタジー』に終始してしまう可能性が高い。例えば『幻想世界の新しいテーマ』はどう見出だせばよいだろうか?
現代日本は一神教概念と多神教概念を俯瞰的に見る事がしやすかったり、幸いなことに多くの文化圏を書物で知ることもできる。一神教概念のバイアスに散見される『他者を教化しようという傲慢さ』もあまりない。
この為、日々Twitterなどでも交わされている大きな分断の渦中に入らないという選択がしやすい。例えば『神様は喧嘩しない』という、我々にはなじみやすい考え方は世界的には少数派だが、このような概念を巨大な世界で表現できたなら、それは少なくない読者に驚きと良い影響を与えるかもしれない。
何かそんなものを見つけて、大きな世界に新しい発見を伴わせられれば最高だろう。
大作の存在は文化の戦いさえ制する
長くなってしまったが、かつて『ファンタジーの主軸』の見誤りの結果、こうして少なくない『日本ならではの要素も入れた本格的なファンタジーの大作』を待ち望む私のような読者を置いてけぼりにしたまま時が過ぎている。そろそろこの長い『待ち』が終わりになる流れを創って欲しいし、そのような巨大な作品がいくつか出れば、いずれ訪れる表現規制の波も凌ぎやすくなるだろう(これについてはまた別の機会に詳細に書こうと思う)。
何よりこれは、西洋風の剣と魔法の世界のゲームや小説という文化を楽しむ我々が、ただの『あだ花』しか生み出せない存在で終わらないためにも大切な事だ。
最後にまた、角川源義氏の名文を再引用してこのコラムをまとめたいと思う。
──第二次世界大戦の敗北は、軍事力の敗北であった以上に、私たちの若い文化力の敗退であった。私たちの文化が戦争に対して如何に無力であり、単なるあだ花に過ぎなかったかを、私たちは身を以て体験し痛感した。(以下続)
我々は決して愚者ではないはずだ。だからこそ、歴史を繰り返してはならない。その為にはどうしても基本に立ち返って、『履修と解題・解釈』をする必要があるし、その上で本来の、しかし新しい本格のファンタジーに向き合い、生み出し、そして楽しみたいものである。
それをしてこそ、我々はようやく三十年の空虚から一歩進めるだろう。
【補足】
今回のコラム内で、日本のファンタジーコンテンツの原資となった作品群について言及しようと考えていたが、長くなってしまったのでまた別枠での記事を挙げさせてもらおうと思う。