『君たちはどう生きるか』ネタバレ含む解釈と感想

コラム

 本記事は、名興文庫 相談役 堅洲斗支夜が小説投稿サイトノベルアップ+に掲載している記事に、「俯瞰して」を追記したものとなります。
 本記事には『君たちはどう生きるか』のネタバレが含まれます。ご了承ください。

 あまり映画館に行かない私ですが、宮崎駿監督の『君たちはどう生きるか』の評価があまりにもネット上で分かれているのと、一部の創作者たちには開き直ったような酷評も見られたので誘惑に勝てずに映画館に行ってしまいました。視聴前の気持ちとしては、出来れば見に行きたくなかった。『面白いと感じたら嫌だなぁ』と思っていたからね。

 で、視聴した感想ですが非常に面白くて、解釈やオマージュを追いかけているうちにあっという間に終わってしまいました。やっぱりこうなってしまって、ああ嫌だなぁという気持ち。しかし、映画そのものは監督の成り立ちと遺言ともとれる素敵な問いかけで、良いものを見たという気持ちはとても強く、満足度は高いですね。

 以下はネタバレ含むので要注意ですが、順を追って私の解釈や考察をつらつらと書いていきます。

解釈と考察

 冒頭の病院の火事

 主人公が家を出てから燃え落ちる病院を見るまでが、印象での空気感で表現され、特に燃える病院の柱や梁などは、大きめの火を長時間眺め続けて、目の焦点が熾火に向かった時の幻想的なぼやけが涙によるものと共に表現されていると感じました。こういうものをアニメーションで観たのは初めてですし、最後かもしれないです。ここから期待感が高まるのですよね。少なくとも映像美や表現で期待外れになる事はない作品だと。

 夏子(母親の妹)登場

 作中屈指で気持ち悪いシーンは、亡くなった母親そっくりの母の妹、夏子が、主人公の手を妊娠している自分の腹に触れさせるシーンでしょう。この時の夏子の手に結婚指輪が光っていますが、おそらく主人公の心がとても混沌とするきっかけのシーンです。母に似た(しかし若く他人である女性に)思春期の少年が触れるわけですから、性的な事が全くよぎらない事は考えづらいです。しかし、その女性は決して自分と関係が深くなることはありませんし、男性としては欠片ほども見られていないのです。母親は救えず死に、母とよく似た女性にとっての自分は一片たりとも男性ではありません。それどころか新たな母です。男性性の確立は困難な暗闇に入ります。

 屋敷と老婆、老人たち

 前述のシーンと合わせてみると非常に面白いのが、老獪なたくさんの老婆たちに対して、男の年寄りたちは存在感も薄く病に臥せっていたりします。形無しの主人公の男性性に追い打ちがかかりますね。人生の演出はしばしば心境に合わせて収斂することがありますが、そんな事まで教えてくれているとしたら大変な事です。

 また、この辺りのシーンだけですが、屋敷に建築様式としてちょっとあり得ない部分がわざわざ描写されています。この作品の全編を通して、小物や建築様式はかなり正しいのですが、主人公が屋敷に入った最初だけ、朱塗りの神社のような階段が見えていたりします。建物にも何らかのメッセージがあると読んでおけという事と解釈しましたし、事実それで解釈できそうなシーンが後ですぐに出てきます。

 アオサギその一

 シーン的には前述の屋敷の場面の途中で初登場しますし、登場後に屋敷の情景が少し幻想的になっている気がします。この物語のアオサギを南方の民俗学的な解釈をした考察もあったようだけど、自分の最初の印象は『エジプト神話から?』という思いでした。ベンヌというアオサギそのものの姿をした神がいるため。そして、この思いはアオサギからおっさんの顔が出てきてより確信が深まる。その姿は古代エジプトの人間の魂の片割れ、バーそのものの姿になるからだ。しかし、みんな突っ込みたくもなるだろう。『イメージと違う!』と。

 謎の塔

 さて、そんなアオサギに導かれた主人公ですが、入り口が埋められた謎の塔を発見します。この塔は作中で外観が変わりますが、この時の塔はファルス(※要検索)の隠喩であろうと思いました。ただ、そうなるとこの映画はフロイト的な性的メタファーが含まれるのか? という解釈の覚悟が出ても来ます。同時に、男性性を確立しなくてはならない主人公には見本的な何かの象徴となり得るため、この塔に執着する本能的な動機として正しいかなと。

 大叔父

 謎の塔を建てたとされる大叔父の写真はやや特徴的な髭があり、デフォルメされたダリを連想する人もいるかもしれない。この時の話を聞くと、晩年は塔に引きこもった時期のあったダリをますます連想させる描写が為される。もしかして何人か影響を受けた偉人へのリスペクトが出るかも? と思わせられるし、実際にそうなる。

 主人公の名前

『まひと』という発音が『眞人』だったのは嬉しい当たりだった。眞人すなわち真人とは道徳的に完成された人間であり、ある種の理想形だ。彷徨ってどこかを目指す『君たち』そのものの名前としてふさわしい。

 対して苗字は『牧』である。神の牧場の迷える羊であることを意味しているのだろうか? キリスト教的な解釈は少し珍しい気がしたし、ちょっとだけ入れるならこれくらいで良い気はした。ただ、後述の魚のシーンも少しだけそう読める要素はある気がする。

 父親

 有能だが主人公から見たら乱暴な人物だと見えている。この辺は色々と個人的にはニヤリとできるシーンで、『宮崎駿監督は左翼的な思想の持主』と言われるが、そんな思想軸の人々がしばしば持つ男性性(大抵は過剰に乱暴かつ愚かに見えている)への嫌悪が比較的よく表れていると思った。そして、そんな父親が潜在的な思い人である夏子と帰って来るなりキスを交わすのを隠れ観るシーンは実にいい。普通はこんなに明け透けには描写できないものだ。ここは昔の文学小説に漂う卑屈さに通じるものがあるシーンだろう。

 夏子の弓矢

 夏子が放った鏑矢は梓弓から放たれたのだろうか? 彼女の血統が普通でないことを示唆している。

 武装する主人公、男の始まり

 木刀を噛み砕かれてもアオサギの羽根を拾って弓矢を作ったり、『肥後守』を研いだりと立ち上がる主人公。男の始まりである。

 丁寧に描写されていたアオサギの羽根を矢に貼るシーンでのご飯粒の使用は、彼にもやはり血筋から来る知識がある程度はあったという意味だろうか? お札などはご飯粒で貼るものだ。うがった見方をするなら、彼がご飯粒を口でつぶすシーンは、彼がまだ少年であることを強調しており(女性との関りがない状態の少年はある程度破魔の力を持つ)、この後成長する事の暗喩なのかもしれない。

 肥後守の砥ぎ方を年老いた男性から教わるシーンはとても象徴的だ。男性として終わったように見えても、蓄積した経験はやはり持っており、それを素直に吸収するのは大事な事だ。男の道を示してやれるのはやっぱり男なのである。

 アオサギとの戦い

 アオサギの中の男の醜さは、おそらく零落や道化の意味合いがあるだろう。アオサギと眞人との戦いで唐突にアオサギの弱点が露見するシーンがあるが、この少し理不尽なコミカルさは少年が何らかの存在と対峙する民話や神話にしばしば見られるものだ。零落した存在の末路や限界が見える演出という事かもしれない。

 塔の中へ、大叔父その二

 最も難しいと感じたのが、老婆の一人キリコが一緒に呑み込まれた事。整合性を伴った解釈は出来なくはないが、『そこまで赤裸々にするか?』と思うようなもの。これについては後述する。

 また、ここで登場する大叔父はその姿が『星の王子さま』の老いた姿のようで、もしかして? と思ったタイミングで塔の天井が星の王子様のタッチのものに一瞬切り替わる。また、この後のシーンで塔の床は一瞬ピカソの絵画にも見えて、やはり影響を受けた先達へのリスペクトもあるのだろうなと感じた。

 面白いのがアオサギに眞人を案内するように指示しているところ。アオサギはやはり道化の面も持つのだろう。

 ダイムラーと戦車

 作中でのこれらはコミカルなほどに小さめ描かれている。しばしばミリオタとされる宮崎監督がスケールを間違えるなんてことはおそらく無くて、『兵器や機械へのあこがれは結局のところ期待外れで滑稽なものである』とでも言いたげ。

 そして異世界の塔

 大叔父の塔はここでは大きな屋敷の一部の区画に過ぎず、冒頭で出てきた塔とはだいぶ趣が異なり、城とも大型の邸宅ともつかないものに変わっている。

 塚とペリカン

 眞人がたどり着いたのは小さな島。金の門扉の彼方にあるのは石舞台のような塚だが、そこはぐるりと壁で封印されている。この少し禍々しい黄金の扉には『我を知る者は死す』とどこか胡散臭く刻まれている。眞人はここで大きな鳥たちの襲撃を受けてこの扉を開けてしまう。この鳥たちは最初『コウノトリ?』とも思うが、これが誤認でペリカンである事にはどうにも意味があると感じさせられる(後述)。

 ここは作中でとても解釈の面白いシーンだと思った。イミテーションのようなまがまがしい黄金のあからさまな『我を知る者は死す』は欺瞞に満ちている。しかし、ペリカンたちには有効な封印として機能していたようだ。コウノトリに見えてそうではなかったペリカンは、生を産み出せなかった者たちかもしれない。生を産み出す事は死を知る事にも繋がるが、彼らはそれを恐ろしいものとして近づかず、結果としてペリカンのままだったのかもしれない。という事は、性的な事へも真っ直ぐには向かっていなかった事をも意味するのかもしれない。

 キリコ(若)登場

 眞人の危機に駆け付けたのは、やたらと威勢のいい女性。しかし服の柄は老婆の一人キリコのものであり、若返ったキリコなのであろうと気付かされる。彼女は祈りを捧げて塚の主の怒りを鎮め、眞人に同行を促すが、この時の海はずいぶんと荒れる。最初の一歩を踏み出す時の先人の落ち着きと対比を荒れようで表現しているのかもしれない。

 彼方の無数の船と、主要人物たちの船

 印象絵画のような光の射す中、無数の船が一定方向に航海するというよりは流れていく。人々と時代の移ろいにみな自分の意思があるようで、結局は帆船のように流されているだけかもしれない。

 対して、若いキリコや後に登場するヒロインにして母親、ヒミの船は三角帆の小型船で、これは逆風でも進める船だ。たとえ小舟でもこの世界或いは時代の流れに従わずに自由に、という意味なのかもしれない。

 大魚とキリコ、ワラワラ

 キリコの漁を手伝う事になった眞人だが、この『主』と呼ばれる大魚は妙にグロテスクで、腹面から鰓蓋や頭部を見た感じは、まるで木製の『金精様』のようである。まさかなと思いつつも見ていると、この大魚を捌くシーンでキリコは手慣れた仕草で上手に行い、眞人は失敗してはらわたにまみれて笑われるシーンがある。まるで性の手ほどきのようにも見えるこのシーン、深読みのし過ぎかと思っていたら、この後夜になって、大魚を食べたワラワラたちが、あるいは受精を終えた卵のように空に飛び立つシーンに繋がる。『生まれるんだ』というキリコの台詞は、少年の暴れる性への認識が落ち着いた貴いものに変わっていく過程のようにも見える。こうなるとワラワラたちの暮らす朽ちた大船は、長いあいだ命をつないできた『遺伝子の乗り物』なのかもしれない。

 ペリカンその二、ヒロインの登場

 さて、せっかくの良いシーンで螺旋を描いて飛び立っていくワラワラたちを襲い、食うのはペリカンたちである。性および生に向き合わず貪り食う彼らは、だからこそコウノトリにはなれなかったのだろう。

 そんなペリカンたちを追い払うのは、花火のような炎を打ち上げるヒミ。眞人の母でもありヒロインでもある女性だ。この時に興味深いのは、ヒミの船の帆もキリコのものと同じ紅白の三角帆のものであること。この世界において自由な存在である事と、血の通うつまり明確に生きている存在を意味しているのかもしれない。『この世界は生きてない奴も多い』というキリコの言葉にも繋がってくる。

 ヒミが去った後に傷だらけのペリカンと眞人が会話する。『豊かな地を探し続けた』というペリカンたち。人は大抵、『今より豊かなどこか』を探し続けるが、その姿勢が正しくなければ彼らのようにいつまでも迷い続ける事になるのかもしれない。

 ヒミ

 母にしてヒロイン、ヒミである。その名は『火見』であろうか。この物語の時代、家庭において火を見るのは女性がメインだったが、母にして妻なら主人公にとって二重の意味で『火を見てくれる人』である。実際、後のシーンではヒミが火を扱って眞人にとても美味しい料理を振舞うシーンがある。ヒミが眞人にとっての『火を見てくれる人』になった瞬間とも解釈できる。パートナーを見つけた男性が一人前になる瞬間だろうか。

 インコたち

 コンパニオンバードたるインコが社会を築いてそれぞれの役割を持ち、まるで人間社会のような王国を形成し、インコの王までいる。それはまるで、おのれを知らずに社会に動かされることに没頭する人々と、その権力者のようだ。それだけに、王たる大叔父の元に向かうインコの王の家来が、美しい景色に魅せられるシーンはどこかとても物悲しい。

 産屋

 本来、産屋に入るのは穢れであり禁忌であり、夫でもなかなか足を踏み入れない場所だ。いわゆる『産の忌み』である。これは特に火を穢すため、『火を見る人』であろうヒミが結果として意識不明になるのはとても理に適っている。

 ※ 余談だが、私が若い頃、従業員の家族に出産があったらその従業員を休業させる決まりのある製材所があった。ある時、妙に一日で事故やケガが多い日があり、思い至った年配の従業員が若い従業員たちを問いただしたところ、妻の出産の日に黙って出勤していた者がいた、という話まである。

 産屋の夏子と眞人

 夫がようやく立ち入れるような産屋に眞人が立ち入ったのは、男性として見て欲しい、という部分もあったろう。そして、時代性とはいえ姉の夫に嫁いだ夏子もまた、眞人の心が理解できなかったわけではないように見える。だからこそ強く拒絶しなくてはならないわけで、通じ合った部分があるからこそ明確に線を引かなくてはならない。その決別が、冒頭の屈指で気持ち悪いシーンに対して、作中でおそらく最も美しいシーンの一つとして描かれている気がする。理解しあえているからこその明確な拒絶は、その後の関係性を固定し、眞人の迷いが終わる時でもある。

 インコの王

 宮崎駿監督の身近な人だとする解釈もあるようだが、映画館で公開されている以上、万人向けの解釈の軸もあると考え、その視点で解釈すると、本来はインコに過ぎない存在が王となり帯剣をして、あまつさえ積み木さえも積めると言って結局は崩してしまう。このような人々は普通にとても多く、ふと笑わざるを得ない。

 積み木

 この世界の王たる大叔父が積んでいた積み木は眞人に『それは積み木ではなく、石だ』と指摘される。眞人が空き地で踏んだ積み木はしかし、石ではなくレンガの音がする。産業革命(これはレンガの大増産から始まった)以降の商業主義が、とても純粋なコンテンツとしての『積み木』を似て異なる物にしてしまったが、しかしそれを積んでいかなくてはならない。この積み木の数を宮崎駿監督が携わった作品の数とするのはおそらく遠くない解釈だろう。

 宇宙からの石

 塔の始まりの部分、宇宙から来た石については作中で最も浮いたシーンに見えている。この石の光と禍々しさはまるでラヴクラフトの『宇宙からの色』のようだ。影響を受けた先人へのリスペクトの一つだと解釈した。

 なぜ鳥なのか?

 翼のある鳥はしばしば自由の象徴とされるが、実のところは過去の地上の覇者、恐竜が空にも逃げられるようになった姿であり、ある意味で逃避と零落の果てとも解釈できる面がある。

 これは、かつては他の猿たちとの生存競争に敗れて草原に追いやられ、結果として知恵と知性を『磨くしかなかった』我々人類の抱える卑屈さに少し通じるものがあると感じられる。

 エピローグまで

 崩壊する世界と王たる大叔父との別れ。眞人は大叔父の全てを必ずしも引き継ぐわけではないが、しかしアオサギを友とした。道化たる存在を友とするのは王であるため、眞人なりに自分の世界の王となり、歩き始めた事を意味しているのだろう。

まとめ

 生きるというのは『解釈して、どう行動するか?』でもある。だからこの映画のタイトルは『君たちはどう解釈するか?』でも成り立つだろう。ここまでわかりやすく観方を説いてくれている作品を雑にエンタメのみで観て『面白くない』と断じてしまうのはいささか貧困だ。
 現に私は解釈をしているうちにあっという間に映画が終わってしまった。

 まとめるならこの映画は『メッセージとテーマに富んだ自伝的幻想文学をアニメでやってくれた作品』と解釈できるだろう。監督が、『私自身わけのわからないところがある』と言ったのは、おそらくそういう意味なら腑に落ちる。幻想文学はあえて解釈を残す事が大事だからだ。そして、アニメにはこんな可能性もあるのかとも感心させられた。改めてエンタメや商業主義への偏重に対しては文字通り『どう生きるか?』、つまり、よく考える必要があると示唆してくれる作品だったとも思う。結果としてこの映画をリアルタイムで映画館にて視聴できたことは幸運な事だと思えた。

 願わくば、もっと他にもこんな作品がしばしば出て欲しいものである。とても良い視聴体験をさせていただいた。

俯瞰して

 事前広告無く公開された映画、案の定賛否が分かれているが、この事前の広告なしというのは『解釈を視聴者に完全に委ねる』という点でも正しい。幻想文学に触れるように映画を見て欲しいという考えもあったのでは? と思う。

 また、宮崎監督の『私自身わからないところがある』これも全く正しい。作者の手を離れた幻想文学は解釈が読者によって分かれる部分が『なくてはならない』からだ。

 俯瞰して、この時期にこのような作品を出してくれたことは大いに意味があると思う。この映画に関して少なくない数目にする意見が『エンタメとして面白くない』『わからない』といったもの。しかし、この考え方はいささか傲慢かもしれない。例えば当文庫は出版社だが、商業的には分かりやすい作品が溢れている昨今でも、伝説的名作は書店や図書館で不動の位置にあり、読解した人々は今でも感動することができる事を知っている。こういった感動は、『エンタメとして面白くない』『わからない』で止まってしまってはまず得られない物なのだ。

『なぜ自分は面白いと思えなかったのか?』『面白いと言っている人々はどの部分でそう思ったのか?』そう考え始めた時に、読書と探索の旅は終わりなき道を見せ始める。そしてこの旅をやめない事こそが自由への道であり、ますます閉塞していく社会において唯一自分を引き上げてくれるものなのだ。

 そんな気付きを敢えてもたらそうとしてくれた偉大な監督と作品に敬意を表すとともに、リアルタイムに映画館で視聴出来た幸運に、心から感謝したいと思う。